自分殺し

 今日はつまらないことで上司に注意され、メンタルが完全に死んでしまいました。
 僕はつまらないことでパソコンを破壊してしまいました。
 落としたとか、ぶつけたとか、そんな立派な理由ではなく、ノートパソコンの閉めるとこに紙の資料を挟んでおいたら画面が割れたのでした。
 意味がわからん、と僕は思いました。どうして僕のノートパソコンはそんなに弱いの!? ほかにも挟んでいる人いるのにどうして僕のだけぶっ壊れるの!? これ僕のせいなの?! えっ、始末書かくんですか!? マジのこと!?
 眩暈がしてきて椅子の上で燃え尽きてしまい白い灰になりました。これほど自分の不運を呪ったことはあるまい。
 もう死のうと思いました。生きているのにほとほと愛想が尽きました。上司は僕に注意したあと「でも仕方ないよなあ」と言ってなぐさめてくれましたが、そのフォロー自体が嬉しくもあり情けなくもあり、情緒が変になって、しばらくきちんと生きるのを辞めようと思いました。(ノートパソコンの件だけではなく、最近色々疲れていました)
 きちんとしてなければ生きられる感じでした。
 適当だったら余裕です。
 僕は僕の心の中にある「自分殺し」を取り出して、自分の心に切り刻みました。
(自分殺しはドラゴン殺しみたいなかっこいい剣ではなく普通のハサミみたいなやつです多分)
 僕の心は108個に分かれ、世界中に散らばりました。
 心が108個に分かれたあと、僕の残骸はロボットのように自動で動き始めました。
 ロボットのように働き、ロボットのように電車に乗り、ロボットのように松屋で牛丼を食べ(ロボットがご飯を食べるのかはよくわかりませんが)、ロボットのように帰宅しました。
 家に帰ってくると、なんだかだんだんあほらしくなってきました。
 色々なことがあほらしくなってきました。
 落ち込んでいたこともあほらしいです。今度から紙の資料をパソコンに挟まなければそれでいいではないか。
 疲れていたこともあほらしいです。疲れたっていいではないか、疲れたからなんだっていうんだ。
 あの失敗もこの失敗もあほらしくなってきました。星の数ほど失敗したけどなんかまだ生きてるしいいではないか。
 全然大丈夫ではないか。あほらしいあほらしい! 考えるのは辞めじゃ! という気持ちになりました。
「生きてりゃいいことあるって!」と万歳をして笑った時、僕の胸がビカビカーと光りました。
 僕はその時になってようやく気が付きました。僕の108個の欠片のひとつ「あほらしさ」は、なんと自宅に飛んできていたのです!
 だから僕は急にあほらしいなあという気持ちになったわけなのです!
 僕はその発見を早速ブログに書いているわけですが、あほらしい文章だなあという気がどうしてもします。
 

アイドル

 アイドルは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を指す。英語(idol)に由来する語。
 ――Wikipedia

 芥川賞受賞作 宇佐美りん作『推し、燃ゆ』を読んだ。
 また映画 今泉力哉監督作『あの頃。』を見た。
 どちらもアイドルが題材になっている作品で、


 ※本文には『推し、燃ゆ』『あの頃。』のネタバレが豊富に含まれています。

 
 ある種の破滅性が描かれていると解釈している。
 アイドルは希望だったし、救済だったし、純粋なエネルギーであり楽しみでもあった。
 両作ともに主人公は程度の差こそあれ社会的困難を抱えている。人生に欠落を感じている。そこに「すこん」とアイドルがハマって満たされる。あるいは満たされると感じる。そして生きることができる、という具合にアイドルは救済する。
 アイドルは何かを救済するからアイドル、神様の代わりの。という側面の解釈を僕の中に留めつつ、アイドルの社会的な貢献というのは面白いことだなと考えている。夢や希望を与える職業といえばエンタメと宗教は本当に同じような効果があるし、ほとんど同じシステムの上に成り立っているとすら思う。それはずっと前から言われていることかもしれないけれど、アイドルは神様ではないけれど神様と同じように人間を救う。スポーツ選手やフィクション作家やミュージシャンや芸術家もおなじようにアイドル性を持っている。あるいは学年で一番の美貌の持ち主とか話が面白い友人とかすごく勉強ができるあの子も同様にアイドル性を秘めている。僕にも君にもアイドル性がある。アイドルっていうのはそういうものかもしれない。人間のある側面がアイドルで、人間のある側面が人間なのかもしれない。修行する前の仏陀はシャカ族の王子様で普通に贅沢して暮らしていたのと似ている。ジョン・レノンは平和についてなんか歌わなそうなやりたい放題のクソガキだったし、非暴力でおなじみのマハトマ・ガンディーは妻の自由を奪ってとんでもない束縛男だったことは彼の自伝の中で明らかだ。誰しもがいつでもアイドルなのではない。人間のある側面がアイドルなのだ。
 『推し、燃ゆ』と『あの頃。』について考えてみると、その物語の構造には結構似たような面があるように思う。あるいはこういうストーリー(絶対的な価値観を持つ存在を主人公が追う話)の定石なのかもしれない。これはシモンとカミナの関係とも似ている。人生に欠落を感じた主人公はアイドルの存在によって救済される。やがてアイドルを取り巻くコミュニティーに参加しコミュニティー内で新しい自分を発見し居場所をみつける。時間が経ってアイドルは去る(あるいは主人公側がアイドルから去る)。主人公は新しい価値観の中で本当の自分をみつける。(あるいはそれを示唆する状況が提示される)
 こういう物語はおそらく普遍的なものなんだろうなあと考えていて、この大きな流れはほとんど人生と一緒だ。アイドルを親(有名大学でも企業でもなんでもいいけれど)に置き換えて考えてみても違和感がないので、強い価値観からの脱却は人生のステージが変わったことを表現しやすいのかもしれない。要するに主人公がコミュニティーの価値観を抜けて自分の考えで自分の人生を歩んでいると観客に感じさせればそれが真っ当なラストのように思われるのだが、それでは作中のアイドルという存在は卒業されるための存在なのか? と疑問が生まれる。それは主人公をより強く精神的自立させ新しい価値観を与えるための装置に過ぎないのか? うん、それでいいんだ。あらゆるアイドルはある意味で卒業されるためのものなのだ、と僕は考えた。それは人生の欠落を補填するものなのだ。エンタメでも技能でも価値観でもなんでもそうだ。それは主人公の人生の欠落を補填し、コミュニティーをひっくるめた新しい価値観を与え、主人公を新たなアイドルにするための装置だ。親や友人ですらアイドル的観点から考えればそうなのだ。何故ならすべてのアイドルは永遠にアイドルではいられないからだ。アイドルは循環する。
 そういえば僕は昔、アイドルにハマろうと決めて、しょこたんにハマったことがある。CDアルバムを買ってすべての写真集を買ってDVDでライブを見て喜んでいた。辛い時にしょこたんのライブを見るとなんか元気になったような感じになって良かったのだけれど、いつからかしょこたんコンテンツを見なくなってしまった。最近Youtubeを見てみたらしょこたんが自分のチャンネルを作っていて、いまだに「トゥットゥルー」と言っていた。それを聴いた僕が、いまだに元気になっていた。
 

努力家

 会社に出る前にLINEでメッセージが届いた。
 会社を辞めた先輩からだった。彼は先輩だけれど、僕とまったく同い年だった。
 もう組織の外にいる人間なのに僕はまだ彼を先輩だと思っているし、そのように接している。
 僕は敬語で話すし、彼は僕の敬語を許す。
 彼が僕を飲みに誘い、僕はそれに謹んで出席する。
 そういう関係の人間は、今のところ彼をおいて他にない。

 彼は会社を辞めてバンドマンになった。はっきり言うと売れないバンドマンだ。
 主な収入源はアルバイトで、チラシを配って町を歩き回っている。
 すごく苦労しているな、と僕は思う。
 最後に会った時には頬の肉が削げ落ちてうっすらと日焼けをしていた。
 あごひげを伸ばして、すこし目つきが鋭くなっていた。

 彼は音楽で生きていくために安心を捨てた。きっと色々な人にものすごく反対されただろうと思う。
 また直接非難するわけではないにせよ彼の行動を良く思わない人もたくさんいただろうと思う。
 変な人だと思われたり、無謀だと思われたり、考えが足りないと思われたり、無駄な努力だと思われたりしただろうと思う。
 実際、今のところ彼は変な人で、無謀で、考えが足りず、無駄な努力をしている人から脱却できていない。
 それはそうだ。誰だってそうなると予想した通りの未来がいまここにあるだけだ。
 彼だって自分がこうなるということは分かっていたはずだ。誰よりもリアルに想像していたはずだ。
 好きなことで生活するのって死ぬほど難しいなんて言葉を頭が馬鹿になるくらい聞かされ続けて子供たちは大人になる。

 彼は努力家だった。全然売れていないけれど、それでもひどく熱心に勉強をした。
 音楽はもちろんだけれど、ビジネスについて学んでいた。
 集客法、理論、法則。彼はたくさんの本を読んでいた。
 お金を払って勉強会に行き、講演に参加し、売れているバンドマンに話を聞きに行く。
 そういうことを話す時の彼はとても楽しそうだ。
 僕は彼の話を聞くと元気になった。
 それは僕にとって、彼の音楽よりも、また彼のビジネス理論よりも興味深いことだ。
  
 彼はこのたびYoutubeで新しいチャンネルを開設したらしい。
 はじめたばかりだから少しだけ力かして! と彼のメッセージが告げている。
 今度はどうなるだろうか、なんてこれっぽっちも僕は考えない。
 バンドもビジネスもYoutubeも、僕にとってはあまり価値がない。
 大事なのは、彼が努力家であること。なんかどっかに突き進んでいくこと。行動を辞めないこと。

 それだけで誰かに力を与えること。

 

 

うっせぇわ

「ししみさん、うっせぇわ聴いてる?」モヒカン先輩が言った。
 ええ、聴いたことあります。と僕は答える。うっせぇわか。突然聞かれると不思議な気持ちになる。
 うっせぇわ。うっせぇわ。インターネットで聴いたことがある。Vtuber界隈でちらほら耳にした。
 流行っているんだろうか。POPが好きなモヒカン先輩が僕に聞くくらいだから流行っているのだろう。
 うっせぇわ。たしかに聴いたことがある。Alice In Chainsも聴きます。System Of A Downも好きです。Foo Fightersも。
 めてお☆いんぱくとも聴きます。ようこそジャパリパークへも好きです。Tank!も好きです。
 でも、うっせぇわ。うっせぇわについて、話したいことが僕の中にまるでなかった。僕はうっせぇわについて何とも思っていなかった。主な活動拠点がインターネットの歌い手がオリジナル曲を作ってちょっとバズっているだけなのだろうなと思っていた。
「俺の子供が家でうっせぇわうっせぇわって歌っててさ、腹立つよね、ふふ」とモヒカン先輩は言った。
 それはたしかに腹が立ちますね、と僕は脳死になって答える。うっせぇわか。命に嫌われている。はどうなったんだろう。
 もう全然閉じコンじゃないボカロ界は今どうなっているんだろう。もうボカロpとか言わないんだろうか。音楽を作ってバズったらすぐに商業ラインに乗るようになって、音楽を作ることが特別って感じじゃなくなって久しい。10年前くらいに有名だった作曲者はみんな自分のCDをちゃんとしたレーベルから出して配信されてボカロを使わなくなって自分で歌い始めて、ラジオでボカロネイティブ世代と紹介されたAdoさんがうっせぇわを歌って、それをモヒカン先輩の子供たちがネタにして笑っていて、こういう価値観が今の若者のロックなのかなって僕の感性がすっかりくたびれている。おっくせんまんを歌っていたゴムはどこへ行ってしまったのだろう。マスメディアのカウンターカルチャー的な立場だったインターネットがいつのまにかメインストリームになっていて、Youtubeで生活できる人がたくさん出てきて、僕はもうテレビを見なくなって、だけどインターネットに飽き始めている。自分にぴったりのコンテンツがどこかにあるはずだなんて探す必要もなく僕の好みはおすすめにずらりと並んでいてすべてを消費するだけで3年はかかりそうで、パソコンの前に座ってただ動画を見ているだけで人生はたやすく終えることができそうだ。自然に帰りたいわけでもなく最新のテクノロジーを否定したいわけでもないのに子供の頃夢に見た時間を持て余して前は全然好きじゃなかったBeatlesとかを今になってわくわくしながら聴いている。うっせぇわ。うっせぇわか。
 考えすぎた結果なにもわからなくなりあずきちゃんのOPをぼうっと見ている。

蒸発

 壁も天井も机も、机の上のキーボードも灰色の光を反射していて今日が曇りだとすぐに分かるんだ。
 マットレスの上に飛び起きた瞬間、何かすごく重要な使命を忘れている気がしてそわそわと周囲を見渡している。
 誰かに確かに何か言いつかったのだけれど、抽象的な靄が頭の中に充満していて思考のきっかけが足りない。
 はじめて引っ越したマンションの隣人の顔をどうしても思い出せないのと似ている。
 仕方がないことだしおそらく答えが出ることはないのだろうし答えにも特に意味がないのだろうと考えシャワーを浴びる。
 心も体も自動でノブをひねると水が出て、お湯の気配を感じると手を伸べて温度を確認する。
 そうやって時々、昆虫や動物だった機能を確かめている。
 湯を浴びて身体を拭いた頃にはどうも天気が良くなったようで窓から長方形の光が部屋に音もなく忍び込んでいた。
 洗ったばかりの服に着替えて煙草を一本喫った。それから腹に香水をふりかけた。どこへ行く宛てもないのにいい匂いがした。
 スマートホンから電波を飛ばしてステレオでジャズを流すと朝はきちんと完成して世界のどこへ行っても今日は春の陽射しが満ちていると思った。
 空腹を感じて部屋を出る時、部屋の中にはまだ親密で懐かしい空気が満ちていた。
 とある汚れたマンションの地上階にある赤いちょうちんをぶらさげたラーメン屋は気まぐれで閉店している。
 暖かさが薄いアウターから肌に染みている。春の匂いがする。イヤホンから女性の太い声が聞こえてくる。ブルースの歌声が。
 今日はどこか人目につかないビルの陰の空き地で咲く花があるのだろうと思った。黄色い小さい花だ。
 マスクがからりと乾いている。歩いて進むたびにマスクは排気ガスを濾している。S極とN極の空気はきっとこの世でもっとも美しい。
 2万歩進んであらゆる道を歩き削っている。スニーカーのゴム底がすり減り、アスファルトがすり減り、人間は必ず何かを消耗し、ごみを出して暮らしていると気づいている。
 排泄物を排泄し、包装紙を排泄し、生きていることはゴミを製造することと直結していた。
 どんなことをしてもゴミが出るということは、考えるということにすらゴミを排出することがあるということだった。
 あるいは考えるということ自体が何かの排泄なのかもしれないと考えていた。ゴミが出ることは自然なことだった。
 どこへ行く宛てもなかったからいつものように書店に入り、雑誌の棚、文庫の棚を散策して外に出た。
 それはとある駅ビルの4階にある書店で、品揃えは売れ線、最新作話題作がメインのよくある書店だった。よくある書店を歩いていると落ち着いた。
 階段を上がると駅の上の庭園に行くことができた。
 それは小さな庭園だった。
 ひょろ長い木が植わっていて、植物が地を覆っている。ベンチが用意されていて、青空がどこまでも高い。
 庭園からは線路が見えた。遠くの街まで見渡すことができた。そこは草の匂いがした。
 階段を下りて歩き出した。左足の親指には内出血が出来ていた。歩き過ぎたので消耗したのだった。
 どこかへ向かっているようだった。でもどこへ向かっているのか自分でもよくわからないのだった。
 こんなに天気のいい日に、突然人の前から姿を消す人たちがいることを知っていた。
 彼らがどこへ行ってしまうのか分かる気がした。何かすごく重要な使命を思い出してしまったんだろう。

 

路地

 ごりごりとマップを埋めていく感覚で肩幅より少し広い路地へ突き進んでゆくと、錆びて腐った自転車がハンドルとサドルで全体重を支えている。その自転車が何をしているのかわからないが、逆立ちをしたまま誇らしげに灰色の塀に寄り添っている姿は、自転車の自明性を真っ向から否定して新たな価値観を提示しているように感ぜられ、実に挑発的で勇ましく、だからこそ小憎らしいしなんか恥ずかしいので直視するのがためらわれる、みたいな感覚を覚えて足早にその場を立ち去ったのだが、路地の奥にはさらに常軌を逸した光景が展開されており、あれはなんていう実なのか、黄色くて丸くてごつごつしたでっかいオレンジ似の果実が地雷のように地面をごろついていてスラム果樹園とでも呼びたくなるような有様で、果実の中には意図的にか偶発的にか踏みつぶされているもの、鳥に突き破られたであろうもの、果皮に小石を埋め込まれたものなどが散見され凄惨な無情を目の当たりにして怖気に震える思いであったが、中には心優しき篤志もあったと見えて、誰にも踏まれないよう壁際にちんまりと整列している果実群も存在しており、にわかに人心地を取り戻す。それにしてもなんと非情な路地に迷い込んだことか、自らの冒険心の代償とはいえ恐ろしいものを目にしたものだ、こんな薄暗くて肌寒い道は通り抜けてしまうに限ると思い歩みを速めるが、折悪しく対面からくそでかいセントバーナードを連れた白尽くめの男性が現れ、これはひと悶着ありそうだぞと悪い予感に冷や汗が止まらない。何しろせまい路地だし、セントバーナードはおそらく人間に気を遣ったりしないはずなので、すれ違う時に私の足を噛むかもしれない。噛まないにせよ手をぺろ……と舐めてくるかもしれない。いや舐められるのは構わないのだけれどその時どんなリアクションをすればいいのか私にはわからない。路地の中ほどまで来て突然引き返すのも不審だから、意を決してうまくすれ違うことができるよう祈るばかりだろう。不安で心が満たされた時、犬の飼い主の表情にわずかな逡巡の色が見え隠れしたのを私は見逃さなかった。彼は引き返すべきか、突き進んで犬と共に私の横をすり抜けるべきか思案したに違いないのだ。少なくとも良心的な飼い主であることは了解した。赤の他人であるところの私のことを少しでも気にかけてくれる赤の他人の気遣いを私は嬉しく思い、また彼の気持ちに報いたいとも感ぜられ、その途端にもう腹が据わり、噛むなら噛むがいい、その牙を我が太腿に突き立てよ、私は愛の名の元に痛みを受け入れるであろう、とけっこう過分にヒロイックな気分になっていたところ、犬が突然ぎゅっと足に力を入れて立ち止まった。あまりに突然だったので飼い主もびっくりして前につんのめったくらいだ。白尽くめの彼はリードをちょっと引っぱってみたり、犬の背中をぽんぽんしてみたりしているが、犬は舌をぷらぷらさしたまま私の後ろのどっか遠くを眺めたまま全然動かないままだ。私は犬と白尽くめの飼い主のほうへずんずん進みつつその光景を見ていた。犬は遠くを見たままはあはあしており、飼い主はしゃがみ込んで犬を説得しはじめる。しかし犬は飼い主の言葉なんか聞いてはいない。もっとすごく重要なことを考えているからだ。私はついに彼らの五歩手前まで近づく。それでも犬は動かない。引っぱられても、押されても、犬は絶対に動かない。

神様とドブネズミ

 友人に言いづらい日々を過ごしている、とふと思う。同僚にも家族にも、なんとなく言えない。
 悪いことをしているわけではないのだけれど、たとえば仏典を読んで過ごしている、とは気軽には言い出しづらいもので、変な宗教にハマっているのではないかと心配されそうなところが不安だし、それを伝えたところで仏教的な価値観で物事を判断しているのではないか、と解釈されそうなところも不安ではあったのだし、仏典を読んでいるということを伝えたところで誰も何の得もしなさそうなところで一層の引け目を感じており、隠れキリシタンはこの気持ちを500倍くらいに増幅させたような不安・緊張を抱えていたのかもしれないなとぼんやり考えている。信仰というものが、全然まったく信者ではない僕にすらほんの少し圧力を与えているところを鑑みるに、本当の宗教関係者は無宗教の社会の中で思っているより多分結構生きつらいんじゃないかとすら推測している。いずれ福音がもたらされると信じているにしても。
 いずれにせよ宗教のことはあまり口に出さない方がいいのだろうな、という結論に至っているところだけど、仏典を一冊読み終わって考えたことがひとつあって、それだけは書いてもいいかなと思っているんだけれど、すごく簡単に言うと宗教的価値観は人間らしさを否定して神様のような人になろうとする考え方だった。ずっと昔から人間は人間以外・人間以上に憧れていた、求めていた、という文化が現在まで続いていてそれが普通になっている。エンタメの世界には顕著で、加工された人間像は本当の人間とは全然違う。本当の人間らしさとは違うと僕は思う。では人間らしさとは何かと考えてみると、それは僕自身の行いの全てであり、お父さんやお母さんという存在がもっとも人間らしいと感じる。何の加工もない、生の人間の姿を誰しも嫌というほど見て、感じて生きている。突然お腹が痛くなって電車の中で冷や汗をかいたり、映画を見ている最中にお腹がぐうぐう鳴って恥ずかしくなったり、忘れ物をして青くなったり、町内会のスタンプをたくさん集めて嬉しそうにしていたり、それが人間らしさかなと思う。ちょっとかっこわるいし、すこしださいし、けっこううざいけど、うつくしくなんかない、汚くて強い人間が僕は好きだ。血まみれで生まれてきて煙になって消える人間が僕は好きだ。

 幸福のモデルケースを探していた。
 どん底から立ち直る方法なら以前からちょこちょこ調べていたけれど、普通の人が幸福になるにはどうしたらいいのか、その答えが僕の中にはほとんどなかった。ついこの間まであまり普通とは言えない生活を送っていた、と自己認識していて、この頃は特に普通になったように思ったのだけれど、普通を目指して生きてきた僕が普通になった時、一体何を目指せばいいのか。そして「普通の人」は一体何を幸福だと思って生きているのか。その答えが知りたいと思った。あるいはヒントを。
 普通の人の幸福を知るには、そもそも幸福という価値観がどのようにして形成されたのかを知らなければならない、と考えた僕は仏典を読み宗教的価値観が神様のような人になることであると考え(また、宗教が古くから哲学・倫理・法を担って政治の道具にも使われてきたことを知り)、その対照として人間らしい幸福があるように考えた。人間らしい幸福のモデルケースとは何かと考えていくと、それはおそらく“ドブネズミみたいに美しくなりたい”とブルーハーツが歌ったあの価値観で、“人間だもの”と相田みつをが言ったあの価値観だった。それはお父さんお母さん的な人間らしさの肯定であるように思われた。人間らしさの肯定、というと聞こえがいいのだけれど、人間らしさによって暴力や奪い合いや侵略や排斥が生まれたからこそ昔の人は宗教を作ったのではないか、と考えた。
 人間らしさというものがとてつもなくしょうもない結果を生んだので人間以上のものを作り出すしかなかったのではなかったか。
 僕は本当に手放しで人間らしさを肯定できるだろうか。
 ということで東京高等裁判所に行ってきた。

 裁判所は被告人が犯罪者か普通の人かを決める場所で、この世で最も静かな場所のひとつだ。
 今日は3件の公判を傍聴した。
 1件は詐欺で、もう1件は暴行、最後は窃盗・暴行だった。
 どちらの裁判にも宗教的幸福はまったく無い。
 ものすごく人間らしい欲望、衝動、無思慮無分別、すれ違い、押し付け合いだった。
 人間らしい幸福を突き詰めていくとこうなるんだろうなと思いながら検察と被告の水かけ論を聞いていた。
 最後の裁判、窃盗で訴えられた被告は「お腹が減ったから」という理由でドーナツひとつを盗み起訴されていた。
 こういってしまうとなんだけれど本当にまったくしょうもない。
 自由だし、天真爛漫だし、ロックだし、という解釈をしてエンタメにして面白がることは可能かもしれないけれど、この被告が幸福かどうか考えてみると絶対に幸福ではなかった。
 では逮捕されなければ人間らしさは肯定されるのだろうか。
 ドブネズミの美しさとは何だろう。僕が感じていた汚くて強いという感覚はなんだろう。
 人間らしい幸福ってなんだろう?

 とんでもなく巨大な鯉が泳いでいる川の横の道を歩いて家に帰る。
 ドーナツを万引きした人は幸福そうには見えなかったけれど、もしその状態で被告が幸福だったとしたら、それは人間らしい幸福だったのかもしれないな、と考えてみる。個人主義的幸福。自分が幸福だと思えば幸福。大筋はそれでいいのだろう。自己分析を経て自己実現的幸福。目標を達成する。障害を乗り越える。夢に向けて努力を重ねる。失敗してもくじけない。そういう考えを集約してひと言で表せる言葉があったはずだけどなんだったかなと思い考えてみるとニーチェの「超人」で、彼は「神は死んだ」と言っていた。

 三月は哲学を勉強しようと思った。